マインドフルネス瞑想の実践に〇〇〇はたいして重要ではない

今日は、自分自身のマインドフルネスの実践を振り返って、実践の心の持ちようについて書いてみたいと思います。

レッスンをしていると、マインドフルネスにたどり着いた方は、何らかの心身の問題を抱えていたり、

自分を変革していくための強い向上心をお持ちだったりするのかなぁ、

って、感じることが多いの私です(あくまで私の見え方です)。

で、

マインドフルネスのレッスンをしたり、心理療法に伴走していく訳なのですが、

多かれ少なかれクライアントさんからマインドフルネス瞑想が
「できない」
「あってるかわからない」
「私に向いてない」
(「やりたくない」)

と言う言葉を聞きます。

たった数回やっただけなんですけどね(汗)

うまくやろうという野心

私にとって、少なくともマインドフルネスは練習でした。

もともと身体の痛み(首周りの神経痛・疼痛)をなんとかしたかったのですが、マインドフルネス瞑想で、痛みに翻弄されない「脳」を作れるのか・・・

じゃ、やってみようじゃないかって感じで始めました。

マインドフルネス瞑想(呼吸法)を始めて、15分〜20分程度まで時間を伸ばすことは、決してすんなりといったわけではありません。

なぜなら、当時の私は、常にやるべきこと、やりたいことで頭がいっぱいだったし、結果をすぐに求める思考癖があり、すぐに結果が出ない課題を抱え、いつも不全感でいっぱいでした。

したがって、瞑想中、頭が最初から静かなはずもなく、

それに加えて、一刻も早く、瞑想中ソワソワしない自分になりたいと思っていました。

練習もしないで、そんな自分になれるはずもなく。(しかも、目指してたのは、そう言う自分じゃなかったよね)

そこで、電車の中での立ち瞑想を行ったり、座禅会で半ば強制的に数十分坐ることを繰り返しながら、

結果として、なんとなく日常の習慣になって、知らず知らずのうちに瞑想時間が伸びていって、座って呼吸するのが嫌じゃなくなったって感じでした。

心理療法に伴走しながら思うことなのですが、マインドフルネス瞑想(呼吸法)がなかなかできない方がいらっしゃいます。

これはもう人それぞれコンディションが違うのでしょうがないです。

注意欠如の傾向がある方の中には、「長時間」の実践が難しい方がいるかもしれません。

ですが、5分、10分と短い時間の中で、注意を持続したり、注意を移動させたり、注意を分配させる練習するだけでも、取りかかりとしては十分だし、

忙しい毎日の中で、短時間の呼吸法が習慣化(定着)するだけでも、どんな人にとってもなんらかのセルフケアになると思っています。

できることを続けてみる

私は、できない、わからない、それでも形だけでも続けてみてはどうかなと思っています。

電車の中での、マインドフルネス瞑想(呼吸法)は、王道の静坐瞑想とは風情が異なりますし、

今振り返ってみると、やや我流になっていたのかもしれないと思います。

それでもあの時の私には、それが私にできる最善の練習法だったのです。

電車の中では、感覚も動くし、思考も動くし、眠くなることもなく、面白かったことを思い出します。

正しくやろうとしない、自分ができる範囲でやる、ということを繰り返していくうちに、

段々とマインドフルネスの定義が、身体を通してわかるようになったのではないかと思います。

最初から正しくやろうとしていたら続かなかっただろうな、座禅会でベテランの実践者の方と比較していたら、

劣等感からきっとやらなくなっただろうな、と振り返って思います。

「なんか(上手く)やってやろう」って無駄な野心が鎮まったところから、自分の実践に少しづつ変化が出てきました。

正しさに囚われる人たち

マインドフルネスの実践に「正しさ」は別に必要はないのではないかと思います。

あなたの実践の目的が正しく瞑想することならば、必要なことなのだと思います。

でも、人それぞれ、マインドフルネスにたどり着いた動機とか目指す先ってあったと思うんです。

それって「正しさ」が動機でした?「正しくやること」が目的でした?って話なんです。

多分、違ったのではないですか?

自分を評価し、審判する自分

「正しさ」があれば「誤り」が生まれます。

そして、それらは瞬く間に無意識に立ち上がってきます。

マインドフルネス瞑想(呼吸法)の実践は、そういう評価や判断的な思考にに気付き、不要ならば一旦保留して、まずは呼吸の観察に戻す練習をしていると思います。

それでも「正しくやりたい!」なら、気が済むまで正しさにこだわってやってみるのもアリかもしれません。

マインドフルネス瞑想(呼吸法)は、現在進行形の「どのように」を眺めている(モニターしている)ようなものです。

正しさにこだわっている自分に気づき、日常生活の中でも正しさにこだわっていることが、自分を窮屈にしていることに気づくということもあるかもしれません。

ちなみに、百歩譲ってマインドフルネス瞑想が正しくできなくても誰以外の人は誰もあなたを裁きません。

あなたがいつも自分を裁判官のように審判し、敗訴させ、力を奪っていたりしないでしょうか?

そして正しくやろうとして、身も心も硬くしてムダに神経系を興奮させたりしていませんか?

日常的な苦悩や緊張が不必要なあるいは過剰な「正しさ」への囚われからきているなんてことはないでしょうか?

正しさにこだわることが悪いことというわけでなく、

正しさにしかこだわれず、正しいか間違っているかの二分法でしか考えられない思考のクセがしんどさを引き起こしていないか、

それを点検する価値はあるのではないかと思うのです。

正しいか、間違っているか、そういう思考が湧いてくるのは必然だと思う。

私もなかったか、今もないと言い切れるかというとそうとも言えない、

結局はあるかないかで言えば「ある」んです。

それを「あるがまま」観て、いいとも悪いとも評価もしない練習、

囚われずに次から次へとに訪れる「今」と言う瞬間が映し出されるのを、呼吸を通して柔らかくなった心と身体でただ眺めている、

そういう感じが自分にとっての「いい感じ」なんですが、いつもそうかというと、そういうことばかりではなく。

だって、人間だもの。。。。(汗)

囚われないことが開く可能性

「そのうち」とか「とりあえず」「まあ最初はそんなもの」みたいに、楽に構えることができた方が、今後の可能性を広げられるように思うのです。

マインドフルネス瞑想(呼吸法)に、正しさも上手にやろうとかいう野心も取り立てて不要なのではないかと思います。

無論、そんなことに囚われてしまう日もあれば、そうでない日もあり、何も強引に変えようとしないで「あるがまま」を静観する。

強引に変えようとしない・・・これ大事。

「そんなグダグダさも悪くないな」と思えるようになった私なのですが、

そうやって痛みを裁かず、痛みを感じる自分を裁かず、だんだん、痛みに対してもグダグダになって、最終的に、痛みがあいまいになって、そうやって解放されて行ったのかな、なんて振り返ります。

野心に気づき、その都度、脇に置いておく、私の場合は、最初はそんなことばかりをやってたことが懐かしいです。

まとめ

個人的な体験中心で書いてきましたが、これからマインドフルネス瞑想(呼吸法)を始めようとする人は、野心や正しさみたいなものは、あってもなくてもどっちでもいいんだけど、

それらが、自分を気忙しく、そして硬くしているようなら、手放してみる練習をしてみるのも悪くないよ、って私は初心者の方のできない」「あってるかわからない」「私に向いてない」(「嫌だ」)を聴くたびに、「そうなんですねー」と反応しながら、頭の中では先述のことが頭の中を巡っています。

  • この記事を書いた人

羽利 泉(はりいずみ)

石川県金沢市でカウンセリングや「うつ・不安障害を治すマインドフルネスーひとりでできる自己洞察瞑想療法ー」の講座をしたり情報を発信している公認心理師(国家資格)・マインドフルネス瞑想療法士です。マインドフルネスの実践を通し、心身症状で悩む方のサポートをしています。