トレーナーの羽利です。
前回は、「金澤と禅(1)曹洞宗の聖地・本格的な普及の始まりは金澤から」をテーマに、金沢にある大乗寺が、曹洞宗の広がりの出発点であったところで終えていました。
では、その大乗寺の開山の頃に遡ってみましょう。
義介禅師と大乗寺(金沢市)
大乗寺の開祖は、徹通義介(てっつうぎかい:以下義介)禅師です。
道元禅師は、永平寺にて後継者となる優れた高僧を育てました。
そして、永平寺の2世を孤雲懐奘(こうんえじょう)禅師、3世を義介禅師、4世を義演(ぎえん)禅師が務めました。
また、寂円(じゃくえん)禅師は、道元禅師が宋で参学した如浄禅師の弟子であり、道元を慕い来日し、永平寺にて求道、出家し、出家主義を厳格に守り抜く宝慶寺(福井県大野市)を開山しました。
3世の義介禅師の時に、「三代相論」という永平寺内での論争が起きました。
これは、義介禅師が道元禅師の出家主義に異論を唱え、この土地の地頭、波多野氏の庇護を受けながら、道元禅師ならば重きを置くことがなかった伽藍の整備や仏礼を取り入れ、出家者以外の民衆にも教義を広げようと体制を整えたことに端を発します。
そのことが、道元禅師の教えを頑なに守ろうとする義演禅師らの保守派の反感を招き、対立を深めていったのでした。
2世の懐奘禅師の仲裁後も和平に至ることはなく、義介禅師は永平寺を去り、越前から加賀国の「大乗寺」へ移りました。
大乗寺は、当時は真言宗の寺院でしたが、禅寺に改め1283年に、義介禅師が1世となりました。
そして、義介禅師は、瑩山紹瑾(けいざんじょうきん:以下瑩山)禅師を迎え、大乗寺2世として、育てていきました。
瑩山禅師は、晩年、能登国に永光寺(羽咋市)、總持寺(輪島市)を開山し、加賀から能登へと曹洞宗が広がり、やがて日本各地に広がる礎を作りました。大乗寺は曹洞宗が飛躍的に広がるまさにスタート地点なのです。
以降、大乗寺は、火災や移転を重ねながらも、加賀藩(100万石)の2代藩主:前田利長公の庇護を受け、3代前田利常公の時代に、越後の上杉・直江家の流れを汲む本多家を召抱えた後、この加賀藩筆頭家老本多家(5万石)の菩提寺になりました。
明治には、廃仏毀釈の影響を受け衰退した時期もあったとのことですが、現在も、永平寺四門首(首位末寺)の1つとして、国指定の重要文化財を多数保管する曹洞宗の「要」の寺院として威光を放っています。
現在、日曜の座禅会では、座禅、読経、正法眼蔵の解説や説法に触れることもできます。
山門には「世界禅センター本部」と書かれた看板がかかげられ、海外での布教、国際観光都市を目指す金沢の地の利を活かし外国人観光客、修行僧を受け入れるなど、義介禅師の意向を受け継ぎ、世界にも開かれた曹洞寺院となっています。
厳寒の時期の托鉢修行は、雪の降る金沢の街の風物詩ともなっています。