参考となりそうな番組・書籍のご紹介

絵ものがたり「正信偈〜ひかりになった、王子さま〜」から学ぶ:身近に感じる浄土真宗

トレーナーの羽利です。

先日、ご縁があって新潟県の小千谷市にある極楽寺さまをお訪ねしました。
(訪ねた動機はまた別の記事でおしらせします)

そこでとても素敵な本に出会いました。
その本は、真宗王国とも言われる北陸の葬儀の際に唱和されることの多い「正信偈」について書かれた本です。

今日は、この本から私なりに考えたことについて書いてみます。

みなさんは正信偈の意味をご存知なのですか?

私は、金沢を離れている23年間にお葬式に参列したのはたった1度だけでしたが、Uターンして3年間ですでにお葬式に5回参列しました。

その全てが浄土真宗であり「正信偈」の唱和がありました。

そして、最初の頃は「正信偈」って何?と戸惑ったものでした(ちなみに我が家は浄土真宗本願寺派)

やがて、回を重ねるうちに「正信偈」が浄土真宗においてとても重要なお経(?)だと学んでいきます。

しかし、「正信偈」というのは浄土真宗の代表的なお経ではなく、「偈」というのは「歌」だそうで、親鸞上人の教えが「歌」になったものとのことです。

それにしても、そんなに頻繁に葬儀に参列する訳ではないので、暗唱などできるはずものなく、とにかく毎回、声とお悔やみの気持ちを合わせることしかできません。

そして、いつかは、般若心経のように意味を知りたいと思っていた矢先に、この本に出会いました。

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絵ものがたり正信偈 ひかりになった、王子さま [ 浅野執持 ]」です。

僧侶の方が書かれた本ですので、意味を知り尽くした上で、万人にわかるように書かれていると思います。

正信偈の内容を物語にしたもので子供が読んでもわかりやすいと思います。

中の絵もとても美しいです。

特に、悟りの光を得たあとのものがたりが素敵です。

”ナモアミダブツ(南無阿弥陀仏)” に込められた意味が壮大なスケールで書かれていうるのですが、

苦しみや悲しみを持ちながらも「自分のすべてを受けとめてくれるこころ」に出会えることで苦しみの連鎖を超えていける

そういうのが、自分の外にも内あるんだなーーーって、ところまでは、すーっと入るんです

が、

「”ナモアミダブツ(南無阿弥陀仏)” どうか、この名前を称えてください」となると、「ちょっとどうしようかな〜」と考えてしまう信仰の薄い私・・・

でも、遠い記憶を遡ると、祖母が言ってたなぁ「なまんだぶつ、なまんだぶつ」って。

善人も悪人も分け隔てなく等しく

北陸には、浄土真宗の寺院の前によく掲示板が設置されていて、そこにありがたい言葉が紹介されていたりする訳ですが、

これまで、慈悲や大悲という言葉を目にすることが何度かありました。

マインドフルネスのことを仕事にしていると「コンパッション(慈悲)」という言葉にも出会うのですが、私は、そのニュアンスの違いを埋められずにいます。

浄土真宗の紹介でよく使われる表現でもあるのですが、

「善人も悪人も分け隔てなく等しく」というのはさておき、むしろ「悪人こそ救われる」というニュアンスは、西洋仏教の「コンパッション(慈悲)」からはじっくりとは感じられないのです。

しかし、親鸞の悪人正機説も西洋仏教同様に釈迦の教えから逸脱するものでもないはずでしょう。

改めて親鸞の考えを調べてみました。

今さらながら私が理解したことは、

念仏が修行であると思っているうちは、苦行の域を出ることはできない。

修行のように努力しなければ救われないといった努力の結果もたらされるのが悟りではなく、阿弥陀如来の本願=慈悲なのだと信じて疑わず、念仏を唱えることこそが核心なのであるという点で、

修行の結果もたらされる悟り=無=慈悲との大きな違いがあります。

マインドフルネス瞑想が3日坊主でも、親鸞的には、阿弥陀如来の本願を信じて念仏を唱えれば救われる。

また、自分だけが救われたいからといって念仏を唱えるのも違うし、いますぐ問題が解決される、救済されるという類のものでもない。

阿弥陀如来への感謝の気持ちで唱えることが何よりも大事。核心なんだってこと。

我が家は浄土真宗本願寺派なのですが、ちっとも知らないんだな私って・・・(親鸞的には「悪人」?)

そして、親鸞の言う「悪人」について、私はもっと理解を深める必要があり、宗教による慈悲の違いも理解する必要もあるんだなあと感じました。

成仏した方への感謝

昨年、高校時代の友人が亡くなり告別式の時に、彼女の同僚の数名が泣きながら「ありがとう」「ありがとう」と言って、棺から離れようとしませんでした。

その時、思ったことですが、最後のお別れの時には、「悲しみ」にくれるのではなく、ただただ残るのは「感謝」なんだと。

だから、

今世での命を精一杯使い切り、浄土に向かった亡き人と阿弥陀に感謝して、今後もまだはっきりと意味がわからない「正信偈」を唱えていこう。

やっぱり意味は完全にわからなくても気持ちだね、というそんな気持ちが新たに湧いてきました。(意味はぼちぼちと「正信偈.com」を参考にしながら)

感謝はどんな悪感情も駆逐すると言いますが、生前の彼女がいてくれたこと、そして時空を超えて彼女と私たちを包む存在としての阿弥陀仏に感謝。

お葬式の時だけの仏教にしておくのではなく、日々の暮らしの中でも、視点を変えていく教えになりそうです。

感謝を手段にするのではなく、感謝は感謝のままに。

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